昭和47年11月15日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

天地金乃神は昔からある神。お話を聞けば、確かにそうであろうと思うです。だから途中から出来た神では勿論ない。同時に天地ははやる事もなければ、終わりもないと言う事も説明を聞けば、そうだとそうだろうとこう分かるのです。同時にまた一番最後の信心はせんでもおかげはやってあるという所なども、所謂天地のご恩恵を受けんでおるという者は、一人も無いのですからそこん所も、そうだろうとこう分かります。
 問題は結局そうした天地のご恩恵を受けるよう。信心はせんでもおかげは受けておる。しかも自分だけではない、自分の先祖まぁ先祖と言うならば、あのこの頃から新聞で、一億五千万年ですかね、前のその人間の頭蓋骨が見つかったと。勿論それは推定でしょうけれどもですから、私共の先祖とこう言うならば、一億五千万年も前、いやもっというたら以前かも知れませんけれどもです。
 やはり、天地金乃神様のおかげを受けてきたと言う事になるのです。それをたまたま私共はまぁたまたまと言うと、たまたまですかねぇ。本当に深いご神縁を頂いて、教祖生神金光大神が、この世に有難い道を御開き下さった。所謂金光教のご信心にご縁を頂いて、そこの所を分からせて貰うた。分からせて貰うたと言うだけではなくて、もう分かったら、どうあらなければならないかと言うのが、私はこの御理解七節だと思うですね。今私が申しますのは、この御理解七節の、前後の所の説明なんです。
 そういう天地の親神様のおかげを受けてきたと言う事をです、知りまたそれを頂いてきておる事を分からせて貰うて。ですからほんなら天地の中に生かされ、生きておる所の、私共はどういう生き方、あり方にならせて頂かなければならないかと。いやそうならせて頂く事が人間の、所謂幸福という事になり。また御守護下さるお守りくださる、天地金乃神様の、またお喜びでもあるわけです。
 ですから、そういうおかげを頂かせて頂く為には、言うなら私共がです。天地日月の心になる事、だから肝要なのであります。ね。拝む術を覚えると言った様な事だけが、だから、金光様のご信心ではない。金光様のご信心はどこまでも、天地日月の心になる事が肝要であり。その事に取り組ませて頂く生涯でなからなければならないと言う事になります。ですからその、天地日月の心になる事を肝要と、心の中に思い込み決め込んでおかなければならん。
 でなかったら、金光様のご信心という事は言えないと私は思うのですね。今までの所私が、申しました事は分かったですかね。天地金乃神様が所謂この、言うならば名乗りを上げてござるという事ですよね。私は今出来た神ではないぞと。もう、昔も昔の大昔からおる神でしかも、世界中の氏子に所謂、満遍なくおかげを授けておる神であるぞと。ゆえに、天地ははやる事もなからなければ、終わりもないと言う、天地金乃神の言うならば、本質を、ご自身が吐露しておられるね。
 ですからそれを、疑うて聞くならばもう、御道の信心は成り立ちません。ほんなこっじゃろうかと思うたらもうそれまでなんです。だからここは又説明を受ければ受けるほどその事実を感じますよね。天地金乃神様と言う神様はそういう神様であると。また成程信心はせんでも、おかげは下さってある所の神様であると言う事が分かる。成程天地がはやることもなからなければ、終わりもないという事も分かる。
 ただ分からせて頂いたのであるから、そんならばどうあらなければならないかと。そこで、天地日月の心になることが肝要だと教えておられる。だから是はもちっと言うと、簡単に言うとですね。神の心を心としての生き方にならなければならんという事になるのです。天地日月の心と言うのは、そのままが神の心である。神の心を心としての生き方になることが肝要だという事になります。
 ところが実は私共の、心の中には神の心どころか、もう浅ましい浅ましい心ばっかりが起きてまいりまして、どうにも自分で仕様がないほどに、ジレンマが起きてくるほどしに、ここんところが分かれば分かるほど、そういう自分いわゆる、自分と言うものを本当に分かってくる見極めてくると、そういう事になってくるんです。ですからこら私自身の信心を言うてみて、思うてみてですね。一番あの言うならないない尽くしの時です、お金は無い物は無い、着物は無い家は無い言うなら人の信用も無い。
 私は福岡の修行中の時分に、やはりそれでも月次祭は、もう所謂大坪の家の月次祭と言うのをやはり、親教会の四回の月次祭に併せてさせて貰い。一日遅れでした。ですから月次祭ですからやはり、お神様のお掃除をすると言うだけではなくてです。やはりお神酒もお供えしたり、まぁお魚も何時もお供えさせて貰うた。野菜も果物もお供えさせて頂いて、月並み月並みの御礼をもうさせて頂きたいのだけれども。もうそのころは何にも出来ない時代であった。
 お神酒鈴の中にも水勿論、水玉はお水ですけれども、お神酒鈴の中にもお水なんです。沢庵の、良かとこだけ切ってそのお供えをした。野菜屋に参りましたら沢山な沢庵を、表にもう、地べたにぽんとこう置いてある。こら要らんとですかち。はぁもうそらゴミ屋さんが持って行くけんそこに置いてある。今のようにビニールなんかに入れておいてはなかです。だから、これ頂いてええでしょうかち言うたら、はぁ良かがのみんなでん持って行って下さいと言われるから、まぁ下げられるしこもらって、勿論腐ってます。
 良かとこて、もうちょこっとしか無い。その良かとこでもやはりもう、後先が腐っとるとするなら、もう味も悪い。けれどもそういうのを、まぁ三寸か四寸ぐらいに、色々に切って綺麗なとこだけを、御三宝に何時もお供えしている。一緒にうみたけが干してある。縄にこうやってしてありましょうが。乾いた奴。もうそれがもうカビがいっぱい生えておるごたるのを、一緒にそこに捨ててある。
 これも要らんとですかち言うたら、それも要らんとですち言われる。それからそれも貰ってきて、それを綺麗に水道で洗って、そしてそれを御三宝に飾る。これはもうニラだけは、ゆっくり出来とりました、畳二枚ぐらいなところに、家内が作っておりましたが、よう出来ました。もうですからもう何時もニラばっかりでしたが、勿論そのニラに色んな味を付けるわけには参りませんから。まぁ勿論塩煮ですけれども、まぁだほんなら若先生なんかは、甘いね甘いねと言うて頂きよりましたニラの塩煮を。
 それだけご飯は無いそれだけを、甘いね甘いねと言うて頂きよりました。ニラが一台本当にお神酒すずが両方に。お水のお供えですが、真ん中に水玉があります。それに沢庵のいわば、腐ったような沢庵が、御三宝一台うみたけが一台、それにニラが一台。御三宝が五台。小さいここにこの言うなら、このくらいな長さの八足でしたもんね。これが二段でした。あの私が、大橋で拝んでおりましたのは。
 大橋ではありませんあの福岡で拝んでおりましたのは。それで御月次祭本当に相すまん事です。お神酒すず一つお供えが出来ん。それでも思いはもうそれこそ一杯の思いで、お祭りを仕えさせて頂きました。所謂ないない尽くしです何にも無いのです。それでももう本当に信心心真心一杯ですからね。有難いお祭りが仕えさせて頂きました。こら余談ですけれども、あのまぁ沢庵の腐ったつぐらい頂きますけどね。うみたけのね、カビの生えたつを洗うたつだけはもう、あれはもうだぁれん食べませんでした。
 子供達にやりましたけども、子供達も食べませんでした。あれは洗ったらですね、もう、味は無くなってしまうんです。あれは洗うて元のごと乾いて、美味しかろうごと見えるんですけどもね。もううみたけの水で洗うたつだけは、もう絶対食べられませんでした。もうそれこそ何と言うでしょうか。あの(けわしこ、美味しかつ?)食べるとと同じことです。だから、これだけは、子供は食べませんでした。
そんなお祭りを、やはり、仕えさせて頂いておる時に頂いた御教えの中にね。「水尽くし、魚尽くしになるまでは、離れられぬが、わしの心じゃ」と頂いております。椛目で、段々、人が助かるようになって、この方の信心。それからこちらの信心、月次祭と言うものは、もう本当に年々歳々お神酒を欠かした事が無い。お魚を欠かした事が無い。野菜果物も、お供えのなかった事が無い。それは段々段々五年たち、十年たちしてくるに従って、立派なものが、お供えがあるようになり。
 それこそお神酒は月次祭に、なん十本というお供えがあるようになり。大きな鯛がお供えに来るようになり。もう今こそ私は魚尽くしになるまではと言うとこじゃなかろうかとこう思う。けども魚尽くしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃと、こう仰るから。これはもう私共はね。信心の油断をすると、神様はもういつでも離れなさるのじゃなかろうかと思うくらいです。もうお前の所は魚尽くしになったから、わしが離れても良いぞと、良いなと言われたら、もうそれまでです。
 やはりどこまでもこれを頂き続けなければならないところに、信心の修行があり所謂、神の心を心としての信心に、精進焦点を置かせて頂くのですけれども、どうも多ければ多いで相すまん心ばかりを起きてならない。ですからねもう本当に修行中の時ほど、心を神様に向けときゃ、一番綺麗な心の使えるときですよ。無いのですから無い尽くしですから。さぁ着物なんかでもこの頃のごとでありゃ、それこそ箪笥にいっぱい、頂いとりますでしょう私なら私でも。
 ですからさぁちょっとどこか行こうち言うなら、もう幾通りでん出さにゃん。今日はどれば着て行きなさりますかち言うごたる、無いならばもうそれこそ何にも無い。それこそ、当時の写真を、皆さんご覧になると分かるようにね。もうそれこそ夏も無ければ冬も無い。何時も夏服一着で過ごすのですから。どこ行くでももう手は要らん未練も無い。神様に、嫌われるような心の、使われることが無い。
 ただ有難いばっかり。神も(?)にもそうです。食べ物が多くなってまいりますと、お粗末にもなるだけではなくて、今度は不平が出る口上が出るようになる。夕べでもこの頃、久富先生と一緒に頂くとどうしても、晩酌を頂くんです。私はあそこんにきが、気の弱かとこで私は、晩酌を頂かんのですけれども、先生に出さんなんけんどうしても、その私が、もう今日は良かと、言い切らん訳です。それで頂く。それでまぁ三本二本を先生に上げて一本私が頂くちいうごたるふうにする。
 それでここん所毎晩のようにお神酒を頂くと、もうこの頃弱りましてから、もうとてもきつい。そしてそのおかげで、夜の御祈念なんかはもう、寝て覚えんち言うごたる、毎日なんです。もうそれだけでも、相すまん事だなぁと思いますけれども。神様はそれを咎めようともなさらないし、またはむしろやっぱ頂くことを頂くくらいです。昨日色々ご飯のお菜がほかに、色んなお惣菜が出来ておりましたけれども、まぁ日本酒に適当なそのお肴がなかった。
 だからもうお前どんがもう、お酒を頂かんもんは、酒の肴は本当作りはきらんですね。そらもう、なぁにもないて。無い時でもですね、本当に、こらまぁ私共酒を頂きますから、もう私が酒の肴を簡単に作るのは、もうほんに酒の肴にぴたっと合うようなものを作るです。けども家内になってみると、自分が見るとじゃなかんけん、例えて言うならまぁこれを自分が、あのお神酒の肴と思うて出しとったつでしょうけれども、しみ皿にタイノマコが出してあった。
 このタイノマコと言う奴は、辛かばっかりで、ご飯のお菜には良いばってん、こら酒の肴になる魚じゃありませんですね。ですからこげなもんどん酒の肴に出してから、酒が飲まるるかち、と言うようなそのあまりにおかげを頂き過ぎると、そういう不足まで出る、不平まで出る。それだけのことじゃない、もう一事が万事にそうです。お互いがですね、もう本当にお金でん、ちっとばっかりあるからこの罪をつくるとですよ。本当着物でん何枚でん持っとるから、やはり罪つくるとです。
 はぁこらまぁいっちょ、良か帯があったなぁと思うんです。はぁこらまいっちょ羽織があったなら。まぁだ良か帯ばいっちょか二つ持っっとるけん、そういう欲が起こるとです。本当に夏も無からなければ、冬も無いで夏服一着の時には、そげなこつは全然思いも考えもしなかった。もう自分も本当にある為に、心を汚す事の多いのに驚きます。けれどもその、今も申しますように酒の肴が、こげな酒の肴じゃ飲まれるかと、その言うた後にです。天地日月の心と言うものに、いつも焦点を置いておりますからです。
 はぁ本当に相すまん事を言いよるとお詫びをするのです。着物でも沢山頂いておる。食べ物も沢山頂いておる。お金も不自由する様なことがない。だから却って罪を作る。皆さん、いっちょですね、もう今なぁにもない、無一物の中の私という事に一つ、帰らせていただきますとね。心配が第一ないです。取られだんせんじゃろうかとかね。汚されはせんじゃろうかとかね。
 例えば良い着物なら良い着物を着ておる、これを汚されはせんじゃろうかと。例えば例え汚されたところで、例えそれが盗られたところで、持って行かれたところで、自分のものとしては、一物とて無いのですから、そういう思い方にならせて頂くとです。楽になるのです。あるために罪作ることの多いのに驚きます。ね。物が十分にふんだんになってくると言うところから、不平不足が出てまいります。
 それこそ、腐った沢庵であろうがです、ニラだけで過ごさせて頂いた、いうならあのないない尽くしの時のほうがどのくらい、本当の有難いものを感じておったか分からなかった。そこで、私共の信心がです。そういうある意味で難儀なとき、ないない尽くしの時にです。本気で、本当なものを、身に着けておかなければならない。それに例えば(ひとくそづつ?)でも、それに伴うてくる。着物も一枚増えてきた。御月次祭には、まぁ魚の一匹もお供え出来るようになった。
 果物もお供えが出来るようになったと、例えば言うに従って、その信心がそこに育っていかなければいけない。おかげを頂けば頂くほどいわゆる、有難さと言うものが、それに伴うていくところの修行が必要。その修行が、天地日月の心なのであります。だからどうでも、天地日月の心と言う心をです。いわば見失わないように、それを簡単に言うと、神の心を心としてと。けどもこれはあまりにも漠然としておりますから、はっきりここに、具体的に、天地日月の心になることが肝要。
 でないと頂いたおかげ、そのおかげが、おかげに信心が伴うて行かない。年をとればとるほど、おかげのほうが多くなってこなければならんのに、年を取ればとるほど、愚痴っぽくなってくると、不平不足が多くなってくるというのが通常でしょう。いわゆる天地日月の心になること肝要と仰る、一番肝要なところに、これは信心をしておっても、焦点をおかないから、そういう結果になるのです。そこで天地の心とは、日月の心とはという事になるのです。
 天が与えて与えてやまない。いわゆる限りなく美しゅうなりましょうやと言う、合楽の合言葉のように、以前言うておりましたね。問題が起こると、もう本気で互いに美しゅうなりましょうやと、美しゅうなりましょうやと、そこに問題が消えてくる。なくなってくる、人間が心が美しゅうなってきたら。そこで美しゅうなるためには、先ず改まらなきゃならん、磨かにゃならんから。言うならば美しゅうなるために、先ず今まで着いてきた垢ば落とさなければならない。
 同時にそれに磨きをかけさせて貰うから、美しゅうなってくる。これが天の心なのである。天と心になることを、一生懸命に精進する。地の心それこそ黙って、受けて受けて受け抜こう。天が与えて与えてやまない心ならば。地は受けて受けて受け抜く心。そげなものは困ります。そげなもんな要りませんと言うのではなくて、それを受けて受けて受け抜くところの、大地の心を心として、何時も信心修行する。ここんところを御事柄として受けなければならないぞ。
 成り行きを大切にしろという事はそれなんです。日月の心日月の心。昨日私は今日、今、お話を頂いて頂いて感じなさることです。まぁところがあるかも知れませんが、ある人のお取次ぎをさせて貰ったら、月光仮面ち頂いた。月光仮面なんか漫画のようなつがありましょう。勿論、月そのものには、光はありませんよね。太陽の光が反射して。だから私共の心が、三日月であれば、三日月だけの光であり、満月のように、心が円満になればそれこそ、昼を欺くような光をも、これから放つことが出来る。
 反射すると言うのが、月光ですよね。言うならば、信心が出来ておればできておるほど月光はいよいよ、昼を欺くような光を放つことが出来る。そういう人をあの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うのは、そういう人なんだ。私は昨日、お取次ぎをさせていただいた人も、もう本当にこの人は大体信心が、もう出来てござる人と、私は思い込んどった。ところがこれは仮面ぞと、信心出来た振りばしとるだけぞと、ここで引っ張る、私がそこでその人のほんなら。
 仮面をね引き抜いてやることは、みやすいことだけれども、それはあまりだから、本人が、そこに気付くように、その事を自分で悟る様に祈れといただいたんです。はぁ信心は有難いですのーやち言いよるばってんですね。実を言うたらそげなこと。月光仮面。だから、先生、私が悪かったと言うてくださいちいう事は、結局そんな風に言うなら、私はそれば、ひんむかにゃ出来んのですよ。
 仮面をかぶっとるとを、ひんむかにゃ出来ん。ですから自分自身がです自分自身の心の中に、不平が起こったり不足が起こったり汚いわがままやら、我情我欲が出来た。これも、ある人の事を、私がお願いさせて貰いよったら、あの野生王国という、あのテレビのありよっとこの、象がここに出てくるとこがありますがね。あの象を頂いた。という事はありゃ、慢心といつも仰るが、慢心をしておるから、そういう様な事を平気でやるのだと。これはある人の場合。
 私共がもう本当にもう、今も申しますように、本当に難儀一生懸命真心いっぱいで、神様に向かわせて頂く時にです。そういうものを私共が、本当に綺麗にしておかないとです。それがあるまま、おかげを頂いて参りますと、それが大怪我の元になる様な事になるのです。私共でもです水尽くし魚尽くしになるまでは、離れられぬがわしの心ぞと仰せられるが。もう、それこそ、魚尽くしどころか。
 これこそもう本当に百味の御食的な、言うなら、おかげを頂いておるのですから、もう神様が、離れようとなさりゃ、いつでも離れなさる事になるのです。こちらの慢心が出たら、神様は何時でも離れなさるでしょう。ね。だから離れられては、こっちが困るですから、私共が、天地日月の心という心を焦点にして、本気で、それに取り組んでおかなければならない。けれどもややもしたりまたは、迂闊にしておるとです、こげな物で酒が飲まれるかといった様な事を平気で口から出すそのすぐ後にです。
 はぁこげな事言いよる自分それこそ、下駄を拾うて歩いたり、野菜屋の店頭に捨ててある漬物を貰うて帰ってくる自分の事を、いっちょ思うてみ、そげな事を言いよると、それこそ、口が曲がるぞと言う、神の声を心に聞かせて頂く様なおかげを頂いとかなければ、本当に、元の木阿弥に、おかげを落としてしまうなぁと思うのです。有難い有難いと言うとっても、よくよく確かめて、言うなら、天地日月の心にならせて頂くからこそ、有難いと言う、有難いでなからなければです。
 それは本当の有難いじゃないという事。いわゆるただ有難い有難いと、口では言うておるけれども言うならば、心が円満でもなからなければ、有難い勿体ないでもないのに、有難いと言うておるのはちょうどそれは、月光仮面をかぶっておるようなもんだと。ですから、この御理解七節は、天地金乃神様の説明。天地金乃神様の御働きを説明しておられて、その中に、だから、天地日月の心になることが肝要だと教えておられるのです。だから、だからと言うのは、そういう神様なのだから。
 そういう神様のおかげを下さってある、その、おかげに対して、神恩報謝の信心生活をしなければならない。その神恩報謝の生活の焦点はです。天地日月の心になることが肝要だという事になるのです。私共が本気で天地日月の心と言うものを、もっともっと追求して、天の心とは地の心とは、日月の心とはと日月の言うなら、寸分違わぬ日々の御働き。これが実意丁寧の言うならば、そのままが実意丁寧である。私共の実意丁寧を教祖様が教えてくださるのもそのため。
 実意丁寧神信心。その神信心というところは、天地の心にならせて貰う。天地の心を心とする事が、御道の信心だという事なんだ。それを拝んだり取次ぎを頂いて、お願いをしておかげを受けたという、そのおかげがただ有難い有難いと言うのは、本当の有難いのではない。それでは例えば、もし有難かったにしてもです。おかげを頂いておかげをまた、おかげの為に不浄をかけなければならなかったり、大怪我の元になったりする様な事になるのですから、天地日月の心にならせて頂いて。
 それに取り組んでおる事、その事が有難いんだと分からせて頂く。為には今も申しますように。こげんとで、酒が飲まれるかと言う様な事を言うたけども、その次の瞬間には、はっと、自分の心のなかにですね、いわゆるその、天地日月の心を、また取り戻そうとする、そういう精進が、何時もなされておらなきゃならない。それを言いっ放しになりよったら、いよいよ、それこそ、神様は、何時離れなさるか分からんと言う感じがします。こら、私自身のこと。ね。
 神様は、誰の場合だってそうですよ。こうやって神様おかげ頂かせてくださいという事を願うからにはです。神様が、本当に皆さんが、今、水尽くしの所しか通っておられんとするならです。魚尽くしにさせたいばっかりに、神様も修行して下さるのです、一緒に。ね。ですから、そこんところのおかげを、魚尽くしになるところまでのおかげを頂かせて貰うた時に、おかげを頂かんで済む信心を、今こそ、身に着けておかなければならん時だと思うですね。
   どうぞ。